アイドルは流れ星

アイドルに生かされている社畜の戯言

自分はSNSに向いてないと思った話

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項立てしてるけどあんまり意味はないし論理的でもない、タイトルのとおり自分はSNSに向いてないな、と思うに至った理由をだらだらと綴ったものです。

もし読んで下さる方がいれば、これは特定の意見や特定の誰かに向けて書いたものではなく、またこれまでの私の楽しいTwitter生活を貶めるつもりで書いたものでもない、ということだけはご理解頂けたら嬉しいです。





1.前提(私がTwitterをやる理由、意見を発することに対するスタンス)


私がTwitterをしている理由は、主に「欲しい情報が早く手に入る」「嬉しかったことや幸せな気持ちを表に出して、それに共感してもらったり聞いてもらえることでプラスの感情が増幅するのが楽しい」の2点だなと思う。

私見だけど、感情や気持ちって誰かに話すと大きくなる。

小さな頃だけど、気になっていた子の存在を友達に話すと、途端に自分の中でその相手が気になる子から好きな子にランクアップした思い出がある。これって皆あるのかな。私が流されやすいだけなのか…あれ本当に不思議で。誰かに話すと急に自分の気持ちが大きくなったりする。

同じように、悪口も誰かと話すほうが場が盛り上がったりする。自分の中に溜め込んでふつふつと怒っていたはずが、誰かと特定の相手に対する悪口を話し合うと、途端に気持ちが大きくなって、時には笑いながらどんどん悪口は過激になっていって。不思議。不思議だし怖い。

いつからか〈本人に直接言えないようなことは家族か、家族並みに心を許す少数の友人以外には誰にも言わない〉ということを念頭に置くようになって、そうやって生きてきた。つもり。この感覚は私生活だけではなくて、Twitterでも同じように持っていたと思う。




2.いつか届いたDMについて


今のアカウントを始めてしばらく経つけれど、いつだったか「褒めてばかりですね、宗教みたいで気持ち悪い」という趣旨のことを、いわゆる捨てアカからDMで言われたことがある。なんの脈絡もなく。問いかけではなかったし、単純に苛立ちをぶつけられただけだと解釈した(なぜ私がぶつけられなければいけなかったのか、それは今でも全然分かってない)のと、そもそも全くその意見を理解出来なかったので無視したけど。

「自分に都合のいい人ばかりフォローして、視野が狭くなってるんでしょうけど」というようなことも書かれていた。まあこれも、普段フォロワーさんと楽しくお喋りさせてもらったりしていたので、それが羨ましかったのかな〜なんかよく分かんないな〜と思うに留まり、これまた無視した。攻撃甲斐のないやつでごめんなとはちょっと思った。

それでも、たまにあのDMのことを思い出す。
ご丁寧に長々と書いてあったそのDMだけれど、私に刺さったのは前述の、
①自分に都合のいい人ばかりフォローして視野が狭くなっているのでは?
②褒めてばかりなのが宗教のようで気持ち悪い
という2点のみだったように思う。どうやって私とSNSについて掘り下げて考えればいいか分からないので、この2点を軸に考えてみたい。




3.自分と同じ意見、異なる意見に触れること


①に関しては、実生活で嫌というほど相容れない人間と接してるんだから、SNSでくらいぬるま湯に浸らせてくれよ…という気持ちもあったけれど、誤解を恐れずに言えば、私だってTLを流れる意見や、ふと見かけた意見すべてに対して常に肯定の姿勢でいられるわけではない。そりゃ人間同士だもの。
多くの人が諸手を挙げて喜んでいるエピソードだったり言動なりについて、同じようには思えずに、自分だけが引っかかっているのかな…と感じるときだってある。

ただ、自分と違った意見を目にしたとき、そういう意見もあるのね~と流せるときもあれば、なるほど私にはない考え方だから大事にしよう…と勉強になったなという気持ちになるときもあれば、すごく嫌な気持ちが胸を覆って、傷付いてしまうときもある。

その差は何なのだろうかと考えてみたときに、思えば「発言は個人の自由だから何言っても良いでしょ」「甘やかすだけがファンじゃない(んだから叩いたっていい)」みたいな言説に心から納得出来たことが、これまで一度もなかったというところにふと思い至った。

結局『その人のことが好きな誰かが見るかもしれない可能性がある場(ここではTwitterやブログ等のインターネット全般を指します)で、その誰かが見たら確実に傷付くであろう言葉選びを出来る神経のほうが私にとってはよっぽど嫌で、自分との意見の同異に関わらずそういうものを目にすると私は傷付く』というところに落ち着いた。

なので自分と違った意見を視界から全て排除したいとか、そういうことではない(説得力はないかもしれないけれど)。


私が傷付くのはたぶん、意見の同異というよりも、悪意とか思いやりのなさが透けて見える言葉に触れたときなんだと思う。自分の発言の自由さえ確保出来れば、自分の気持ちをスッキリさせることが出来れば、見知らぬ誰かが傷付く可能性なんてどうでもいいっていう、そういう言葉。自分がよければ他人の自尊心を踏み躙ることなんて厭わない、そんな言葉。言ってる本人にそういう意図は無いのかもしれないけど、何にせよ、私にはそこがわからない。

だからそういう言葉を使う人とは距離を置きたいなと思うし、見かけたらフォロー外でも今後の自分のためにリムブロしてきたし、それで自分の視野が狭まっているとも思わなかった。私にはある意味盲目的に好きな対象がいて、その状況で視野を広いまま保つって難しいことだけど、自分の意見が全て正解ではないことだけ弁えていれば充分かな、という気持ちがあった。




4.好きな対象を否定しないということ


次は②について。普段はリリカルポエマーオタクを自称する私も、前述のとおり、自分が好きなアイドルに対して、いつだって100%肯定の気持ちでいられるわけではない。ただ、嫌いより好きのほうが楽だという感覚があるので、何かに引っかかりを覚えても、どうにか自分なりの解釈をして気持ちに折り合いを付けようとする。それで納得出来ることもあるし、どうしてもモヤモヤが残るときも勿論ある。そのモヤモヤを表には出さない(ように心掛けている)ので、結果的に私の言葉として残るのは「好き」「大好き」「幸せ」「最高」といった肯定的なものばかりになる。
表に出さないでどうしているかというと、たくさん考えて自分で消化したり、私の抱えるモヤモヤの対象に何の思い入れもない、気の置けない友人や家族に話したり、色々だ。それはただの個人的なルールだ。

正当で誠実な批判と、無神経で悪意ある叩き。真摯な怒りや悲しみと、他者を顧みない悪口。とても線引きが曖昧だし、受け手によってそのラインも変わってくるよなあ、という難しさは常々感じている。ただ、どちらについても言えることは、前者を目にしても平気な私は、後者をスルーできる心の強さは持ち合わせていない。そして、誰かを傷つける可能性を孕んででも尚、マイナスの感情を他人と共有したい、という気持ちに一切共感ができない。


うまく伝わる言葉を選べなくてもどかしいけど、繰り返しになるが、私の好きな人達を誰も批判するなとか否定するなとか、そういうことが言いたいんじゃないんだ。そうじゃない。受け手にとって大小の差はあれど、批判の対象になる・もしくは問題になる行動をしたのが事実であれば、全て擁護しろ受け入れて応援しろだなんて思わない、私だっていくら自分が好きな相手でもそれは無理だ。批判的な意見や厳しい意見を目にして、胸が痛みこそすれ傷付いたりはせず、むしろ「まったくその通りだよなあ…」と思うことだってもちろんある。

ただ、真っ当な理由を振りかざして、建設的でもなければ客観的でもない、読む人にとってはナイフのように鋭い言葉を並べて、それでも平気な神経が理解できなくて、こわい。ということ。私は心が弱いので、自分の言葉や意見が見知らぬ誰かを傷付けてしまったらと思うと、とても怖い。おそらくこの気持ちが、私が私に先述の(勝手な)ルールを課している所以なのだと思う。


以上のことから、他人が見られるところでは(そして内に秘めた自分の気持ちの中においても、可能な限りは)自分の好きな人を褒めることしかしないようにしてきたし、そう努めていたい。今までも、そしてきっとこれからもそこは変わらない。




5.(少し余談)件のDMの送り主のことを考える


ここまで考えてみて、DMを送ってきた方の主訴をどうして私が理解できなかったのか、というのは分かった。分かったところで、送り主は私のツイートを見て傷付いたりしたのだろうか、というところに思いを巡らせてみた。

あのDMからは苛立ちや怒りしか読み取れなかったと思っていたけど、その裏には私が紡ぐ言葉への傷付きがあったのだろうか。まあ単純に私の言葉選びとかその他諸々が気に食わなかっただけかもしれないし、それは今ではもう分からないけれど、傷付いた可能性もなくはないしそこは考えておきたい。
でも、そもそも誰かを褒める言葉を見て傷付くことってあるのかな、と私は思ってしまう。


例えば私の好きなAさんと、私の苦手なBさんがいたとする。その2人に関して、同僚Cちゃんがこんな風に言っていたとしよう。

⑴「Aさんって本当に素敵!魅力的だし性格も良くて最高!!」
⑵「Aさんってないわ〜。顔もイマイチだし性格悪そうだし嫌い」
⑶「Bさんって本当に素敵!魅力的だし性格も良くて最高!!」
⑷「Bさんってないわ〜。顔もイマイチだし性格悪そうだし嫌い」

それを聞いた私の気持ちはこうだ。

⑴ウワー!わかる!!(嬉しい)
⑵何だと表出ろ(めちゃくちゃ不快)
⑶そう思う人もいるのか(平常心)
⑷そ、そっか〜(まあ平常心)

⑴と⑶は両方褒め言葉だが、かたや私の好きな人、かたや私の嫌いな人だ。⑴はもちろん嬉しいし、⑶は私の嫌いな人が褒められてるわけだけど、それで傷付いたりしないし、わざわざ「え〜私は嫌いだけどな〜」とかも言わない。その意見を聞いてよくよく接していたら、何だ良い人じゃんって好きになることだって、まあ無くはない。

⑵はそれはもう傷付く。何でそんなこと言われなきゃいけないんだってつらいし悲しいし、本当に表出ろとかは言わないけどそう言われたことはたぶん一生忘れない(根暗)。⑷については、私の嫌いな人を相手も嫌ってるというだけで、別に傷付きはしない。ただ「もし私がBさんのこと好きだったらCちゃんどうするつもりだったんだろう…」とは思うし、それに共感して盛り上がることも出来ればしたくない。後から自己嫌悪することが目に見えているので。


あまり良い例えではなかった気もするが、何が言いたいかって、 ⑶を聞いて傷付く人っているのだろうかということ。DMの送り主にとっては私がまさに⑶のようなことを常時言ってる状態だったのではないかと思うのだけど、私は対象が何であれ、褒め言葉を聞いたとて不快な気持ちになることはない。いやまあ極論、その対象が殺人犯だったり、自分がかつていじめられた相手等の自分に実害を加えてきたことのある人物だったら不快になるだろうけど。これは純粋に疑問だけど、⑶を聞いて不快になる人もやっぱりいるのだろうか…。

ともあれ、もしもその送り主が傷付いたということであれば謝りたかったけど、以上のことから私は彼or彼女が傷付いたからDMを送ってきたのだとは判断しなかった。


また、誰かの意見を見たときに傷付いてしまうことと、怒りや苛立ちを覚えることは、違うステージにあるように思うというか…怒りや苛立ちの根っこは「反論」であり、そうなるともう議論の範疇だと思っていて。そのDMの送り主に対しては、議論したいわけでもなさそうだし傷付けたわけでもないだろうし、まあ無視でいいか〜と思ったのだろうな、と今では分析している。




6.ちょっとしたまとめ


あなたの苛立ちやあなたの怒りは否定しないから、その気持ち自体を悪いだなんて思ってないから、でも、誰かが傷付く言葉を選ぶくらいなら、自分の中で留めておきなよ。心がしんどいなら、不特定多数の人が見られないような場に吐き出すとか。例えば日記とか、身近な人間に話すとか。あるじゃない。無理なの?何でなんだろう。

例え私にとっては納得出来ない気持ちや意見でも、誰かの苛立ちや怒りを全て否定なんかしない。受け止めたいと思うものだってある。けど、他人のことを慮って書かれた言葉かそうじゃないかくらい、分かるよ。同じようで全然違う。誰かが傷付く言葉を選んでるのに、明確に攻撃してるのに、どうして見知らぬ他人が見られる環境じゃないとだめで、どうして誰でも見られる形で誰でも見られるインターネットに書かなきゃだめなんだろう。 


「嫌なら見るな自衛しろ」っていう意見も分かるけど、それこそ普段セトリなんかは自分が見なきゃいいと思ってる派なので自衛してるし、だからネタバレもみんな自由に呟いたら良いと思ってる。先に少し触れた【正当で誠実な批判】【真摯な怒りや悲しみ】を目にして傷付くときというのは、自分の心が弱っていたりするときだから、それはそれこそこちらの勝手な事情で、だから界隈が揺れ動いているときはTLを見ないようにしている。今もそうして自衛をしてる。
でも【悪意や憎悪】を自衛するのには限界があるよ。彼らが批判されるような悪いことをしたから仕方ないだろ我慢しろ、ってことなのかな。そうか、それなら我慢するしかないのか。時にはただの悪口や中傷にしか見えないそれも。そうなの?本当に??


…前項までに言及してきたような考えを持っている私は、誰かの言葉を目にして、自分勝手に傷付く度にこう思ってきた。


定義付けが遅くなったけど、ここまで述べてきた私の傷付いた言葉を放つ「誰か」というのは、特定の誰かのことではないにせよ、強いて言えば「謂れのない誹謗中傷を繰り返す人」を想定したものであり、また「ファンを自称して誰かが傷付くような攻撃的なことを言う人」も含まれている。

前者の誹謗中傷のレベルになるともう、事によれば犯罪なのでまた別の問題になると思うけど、後者が言う「ファンだから」「好きだから」という枕詞は、私にとってはここまで言及してきた私の意見を覆せるほどの理由にはならない。冒頭に述べたように、私のTwitterに対する前提が端から「自分の思ったことを何であれ好きなように言える場」というものではない、ということも大いに関係しているのではと思う。
ただ、そもそものTwitterの前提は、誹謗中傷は別としても誰もが自由に意見を発することが可能というところにおそらくあって、そこが醍醐味でもあって。たぶん私の考えの方が馴染まない。

なおかつ私はここまで書いてきたような考え方を持っていて、たぶん傷付く言葉やしんどく感じる言葉の範囲がただでさえ狭い。こういったことからTwitterに向いてないのではないか、と思った。結論。




7.何故こんなことを書いたか


この数日、いっさいインターネットの類を見ていない。傷付いても自力で回復できるほど自分に余裕がないし、何が、というと一言で言うのは難しいけど、怖かったから。ここに書いたことは、今回の一連の騒動がより深く考えるきっかけになっただけで、ずっと思っていた。昨日ツイートしたけれど、SNSとの自分なりの付き合い方を考えなくちゃいけないなとは思っていて、この機会にまずは整理したいなと。

公開するかは迷ったけれど、これからもTwitterを続けることになれば、ここに書いたスタンスが私の根底にはあるわけで。DMの送付主がきっとそうであったように、相容れないと思った方がいたらフォローを外してもらったほうがいいのかなとも思った。

あとは、気を付けて書いたつもりだけど、もしこんな冗長な文章でも読んでくれた方がいたのなら、なおかつ読んで嫌な気持ちになった方がいたのなら、すぐ消すのでお手間じゃなければ教えてほしい。もしよかったら嫌な気持ちになった理由も合わせて教えて下されば…と思ったのも、公開した理由と言えるかもしれない。

散々いろいろ言っといてお前の言葉だって誰かを傷付ける可能性があるやん身勝手やん、とは自分でも思います。なので出来るだけ言葉は選んで書いたつもりですが、お叱りも受け付けます。反論がある方もお手間じゃなければ教えてほしいです。




8.終わりに


再三述べてきましたが、誰かの真っ当な批判や悲しみを否定する趣旨のものでは全くないです。そういうものから外れたところにある意見を目にしたときに感じる、自分の息苦しさみたいなものを整理して書いたつもりです。

気持ちを整理するために、苦しい中で吐き出した真剣な批判や怒り、悲しみを否定することは、全く本意ではないです。もし自分の大切なフォロワーさんがそういうものを抱えているとしたら、寄り添って一緒に考えたいくらいの気持ちがあります。(ただ、今の段階ではTL見てないし余裕がないので誰が何思ってるか全然分かってませんすみません)(そしてたぶんまだ時間がかかりますすみません)


Twitter向いてないなとかアレコレ書いてしまったけど…最初にも書いた通り、今までのTwitter生活が嫌だったかと言うと、全くそんなことはなくて。自分のTLを眺めるのが好きなこととか、誰かの優しい言葉に触れることとか、そういうことは間違いなく今までずっと楽しくて、だからこそ続けてきてるので、そこに嘘はないです。

私との意見の同異は関係なく、Twitterという場だからこそ出会えた人達が、NEWSが好きというただそれだけの、でも私にとってはとても大切な共通項を持ってして出会うことの出来た私の大好きな人達が、自分の落とし所を上手く見つけられていますように、穏やかで優しい夢が見られる今日でありますようにと、願っている気持ちにも嘘はありません。


何より、私の愛するアイドルにとって、大きくなくていいから、ささやかでも明るい気持ちになれる出来事が少しでも多く起きる日々であればと、今までと変わらず思っています。





支離滅裂な文章になったけど、無心で考えていると少し頭の中が晴れました。とにかくゆっくり色んなことを考えて、ゆっくり出来ることをして、そして日常生活を頑張ります。






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